せつない夜は空を眺める
まともにこうして長文を書くことが久しぶりすぎて、どうやらブログの要領を忘れてしまったみたい。
そりゃあそうだよね、くどいほどの長文を書いていたのはもう何年前の話なんですか。わたしはどれだけ年をとったんですか。素敵に年を重ねられてますか。
なんてそんなことをふんわり空に向けて考えていたりするわけです。
時間が過ぎることはそれはそれはあっという間なのに、自分で気付ける変化というものはなかなか実感できるものではない。だから時々不安になったりする。
子供の頃は夢見がちだし、大人になったら手探りだし、いくつになってもこうやって自分のことや人との関係で悩んだりすることが当たり前なんじゃないかと思う。
満たされることは一時的なもので、そこに慣れてしまえば新しい欲求が生まれてまた気付けば先に進みたくなってる。「なにかを得た自分」よりも「なにかが足りない自分」の方がずっとずっと色濃く頭の中に残り続けてる。
そのおかげで今まで得てきたものよりも今欠けている自分を見がちなんだけど、ほんとに着実に得てきたからこそ今欲しいものが変化する。
欲があるから進めるし、満たされたからまたその先を求めていく。
やり方を探しながら、失敗しながら、
そうやって気付けば自然に進んでる。
「幸せは気付くものだ」とか言う、なにかを分かったようなありきたりな言葉に心のどこかでうんざりしてた。実を言うと今もしてる。
心の指し示す実体のないものってよくわからない。
子供の頃は大人は賢く崇高なもので、大人になれば分かると思ってた。パズルのピースが欠けているけれど、20年生きれば勝手に全て揃って完全になれると信じてたのに。現実はまったく違うね。
大人とは子供の自分の延長戦上で、自分の不完全さに寄り添いながらひとつひとつ埋めてゆくものだった。
今は少し分かってきた。
だからぼんやりとした不安っていうのは、ほんとに当てにならない。
思考は浮遊する。言葉や文字にしたときに初めてそれは地に足がつく。
ふんわりと浮かんで周りが見えないならそれを形にしたらいい。
ああもう、雨が降り始めてきた。わたしが外に出るといつも雨が降り始めるのはもう法則になってきてる。
さて、ポテチ買って帰ろ。